東京の森へ行きたくなるメディア

kokyu.media

インタビュー 2025.10.1

TEXT:木田 正人  Photo 金久保誠

北極と出会う〜北極冒険家・荻田泰永さんに聞く①

荻田泰永さんのプロフィールを見る

この記事をシェアする

「呼吸の時間ですよ」の運営メンバーで、林業会社・東京チェンソーズの代表を務める青木亮輔。学生時代は探検部(東京農業大学)に所属し、国内外の川や山、洞窟を探検。卒業後、研究生として残った1999年に、チベットでのメコン川源流航行踏査に参加。 その後、林業の世界に飛び込み、現在に至る… そんな青木が訪れたのが神奈川県大和市にある冒険研究所書店。ここは、日本唯一の北極冒険家・荻田泰永さんが2021年に開いた書店です。 冒険はもちろんのこと、探検、旅、自然、哲学、文芸、絵本、児童書など多彩なジャンルが並ぶ店舗には、荻田さんの写真・パネルや極地旅行のウエアなども加わって、素敵な空間を作り上げています。

東京農業大学探検部出身。林業会社「東京チェンソーズ」創業

青木:生まれが大阪の、ほんと街中の此花区というところです。父が水産関係の会社に勤めていて、その社宅に住んでいました。

その頃は、昭和50年代くらいですが、大阪とはいえ、どぶ川でナマズやフナを取ったり、ちょっと足を伸ばしたところにあった小さな田んぼでザリガニを釣ったりしてました。外で遊ぶのが好きで、そんなことばっかりでしたね。

夏休みは母親の実家がある岩手県の久慈市に行って1ヶ月過ごして、綺麗な海や川で遊んだ、というのが原体験です。

青木:植村さんは明治大学の山岳部でしたが、山以外もやりたいと思い、父親が鹿児島大のワンダーフォーゲル部だったとこともあって、進学について相談しました。

そこで東京農大の探検部のことを初めて知り、いろいろな話を聞いて、俄然、興味を持ちました。

荻田:では、探検部ありきで農大ですか?

青木:そうです。本当に申し訳ないのですが、学科は何でもいいくらいの感じで、日程的に受けられるところは地方試験も含めて全部受験しました。

荻田:全部ですか…

青木:それで全部落ちたんですが、農学部の林学科だけ補欠に入りまして…

荻田:はい…

青木:ただ、合格発表の日の、もう夜8時を過ぎても連絡がなかったので、もうだめだねと家で話していたんですが、9時近くになって電話が鳴って、補欠合格ですが、どうしますか? と…

荻田:補欠合格ということは、本来受かった人が「やはり辞めます」と…?

青木:そうです。しかも結構遅い時間だったので、補欠の人がそれなりに何人かいたと思うんですが、辞退した人が多かったんでしょう、それで繰り上げていった最後の最後ですよね。

荻田:繰り上げ当選(笑)

青木:はい。それで農大に入って、入学式の当日に探検部に入部しました。

現役の時はモンゴルの洞窟を探索したり、卒業してからは研究生として1年残ってメコン川の源流を下る遠征に参加したりしてました。 そのメコンの帰りのフェリーで、遠征の隊長だった北村さんという先輩と「この後、どうするんだ?」という話になりまして…。彼女もいるし、親も就職しろと言ってるので、とりあえず働くかみたいな話をして。それで英語教材を売る、電話営業の仕事に就きました。

荻田:電話営業というのはどこに電話するんですか?

青木:お子さんがいる一般家庭です。電話に出るのは、家で子育て中のお母さんです。そこへいきなり電話するんです。

荻田:それで売れるんですか?

青木:売れないです(笑)

子育てを経験したこともない男が、それまで探検部の活動しかしてこなかったのに、急に「お子さんの耳は3歳までが勝負です」みたいな話をしても売れるわけがないです。

隣ではパートのおばちゃんたちが、ばんばん売るわけですよ。それを見て、「どうするんだ」と。1年やって限界を感じ辞めました。

荻田:それでどうしたんですか?

青木:卒業して2年経っていましたので、みんなと同じことをやってもしょうがないと。林業の世界は高齢化が進んで、成り手がいない、そういう産業だったら役に立てるのではないか。外で働くのは得意中の得意だったので、やれるかなと思いました。

荻田:大学で林学科にいたし…

青木:そうなんですが、在学中は試験の一科目としか考えてなかったんです。もっと勉強しとけばよかったです(笑)

それで東京近辺の森林組合や林業の会社に片っ端から電話しました。電話するのも得意だったので(笑)。 でも、全部だめでした。

ですが、その後、東京の森林組合が半年限定の募集をしていたのを偶然、ハローワークで見つけ、そこになんとか滑り込んだという感じです。その森林組合では4年働き、独立して東京チェンソーズを立ち上げました。

荻田:それが今に繋がってるんですね。

青木:そうです。初めは下請けでやっていたのが、木を伐り出して、それに付加価値をつけて売るようになり、そのうち体験サービスも必要だなと、いろいろ多様になって…

課題や目的に対してどうアプローチしていくかを繰り返していくことは、ある意味、探検に近いかもしれないなと感じています。

21歳、大学を中退、焦燥感の中で北極と出会う

荻田:自分の出身が神奈川の丹沢の麓なんです。山があって、川があって…。ちょうどファミコンが出始めたころでしたね。

青木:ほぼ同世代ですよね。


荻田:私、77年生まれ。

青木:76年です。

荻田:学校から帰るとランドセルを家に放り投げて山に行って、カニとか捕まえたりして…。で、山から下りてきて家でファミコンやって…。部活は陸上で幅跳び、短距離をやってました。

日本唯一の北極冒険家・荻田泰永。大学は地元に近い厚木市にある神奈川工科大学に進学。その大学時代、それまでは日々の部活などで燃焼していたエネルギーの向け場がなくなってしまったことに気がついたと言います。

荻田:学校行ってもあまり面白くないし、だんだん行くのがめんどくさくなって足が遠のくようになりました。最後の方はほとんど行ってなかったですけど、一応、丸々3年通って、辞めちゃいました。3年だから21歳の時ですね。

青木:3年までいったなら、もう1年我慢すればいいのに、という気もしますが。

荻田:単位も足りなかったから、4年で卒業できないことも明らかだったし。学校に行きもしないのに、親に学費出してもらって、ずるずるというのはもう嫌だなと思って。もう、時間と金の無駄だと思って辞めちゃいました。

中退しても何やるかも決まってなかったですけど、辞めたことで1つ心のたがが外れた感じがしました。

青木:その頃はどういうふうに過ごしてたんですか?

荻田:本を読んでましたね。小説だったり、ノンフィクションだったり、いろいろ。自転車で世界一周した人の紀行文を読んだりして、面白いな、こんな世界あるんだと思っていました。

青木:影響を受けたりはしたんですか?

荻田:いや、憧れはありましたけど、本の中の世界だなと思っていました。読んだ後はパチンと締めてくる感じですね。

自分の動き方がわからない、どうしていいかわからない、エネルギーはものすごく抱えているんですが、その向け方が分からない、そんな時期でした。

大学を辞めたのが99年の3月なんですが、その年の7月に偶然、NHKのお昼のトーク番組に大場満郎さんという、冒険家がゲストで出たのをたまたま見たんです。

それまで大場さんのことは知らなかったそうだが、何か感じるところがあったのか、荻田さんは番組を見続けたそうです。番組では、山形の農家に生まれた大場さんが、その後、家を出て、東京に1人で暮らしながら、冒険に憧れて、植村直己さんに会いに行き、最後は自分も冒険家になるという生き方が語られたそうです。

荻田:北極を4年連続で挑戦して、3年続けて失敗。4年目に成功させるんですが、自分がモヤモヤした感覚の時だったせいか、だんだん目が離せなくなりました…

で、番組の最後に「次の計画はあるんですか?」と振られて、「来年、全く素人の大学生ぐらいの若者を連れて、北極を歩こうと思ってるんです」と話したんです。

その計画を聞いて、あ、俺も参加できるのかなと思って、なんか、気になって…
その後、3ヶ月、4ヶ月空くんですけども、大場さんに手紙を書いたんです。テレビで見ました、私も行きたいですと。

そうしたら返事が来て、その北極行きに参加することになりました。

(インタビュー収録:2023年5月)


偶然見たテレビのトーク番組でゲストの冒険家がいきいきと話す極地での旅の話。大学を中退して、心も身体もモヤモヤしていたという荻田さんは、徐々に引き込まれていきます。これが北極との出会いでした。

2回目へ続きます。


冒険研究所書店はこちら

100milesAdventureについてはこちら

TEXT:木田 正人  Photo 金久保誠

この記事をシェアする